LOGIN突然呼ばれ、淳が顔を上げる。
「はい?」
「昨日は君も随分頑張ったそうだね」
「別に何もしてません」
「御堂君を瑠理子ちゃんのところへ連れていったんだろう?」
「……はい」
「偉いじゃないか」
二郎は穏やかに笑う。「状況をちゃんと考えて、淳君自身が仲裁に入るのではなく御堂君を連れていった」 「俺が会場に入っても何も証明できませんから」「冷静な判断だ」
「そんな大したことじゃないです」
淳は少し面倒そうに視線を逸らす。
二郎はそんな淳を見ながら、何気ない調子で続けた。
「でも」
「?」
「君のおかげで、御堂君と瑠理子ちゃんの仲が随分進んだとも言えるね」
「……」
淳の表情が僅かに止まった。瑠理子も胸がざわつく。 「二郎叔父様」「海原さん、大丈夫ですか?」 女性社員に声をかけられ、瑠理子ははっとした。「……大丈夫です」 今すぐ父のところへ行かなくては!! スマートフォンを返し、瑠理子は立ち上がった。「すみません。私、少し席を外します」「はい」 経営企画部を出ると、自然に足が速くなる。途中から、ほとんど走っていた。「お嬢様!」 後ろから声がした。振り返ると淳だった。「どうしたんですか」「お父様が……」「記事ですか?」「知ってるの?」「社内中で話になってます」 瑠理子はまた歩き出した。「お父様のところへ行く」「待ってください」「待てないわ!」「だったら俺も行きます」 足が止まった。「え?」「一人で行かせられないでしょう」「でも……」「その顔で何言ってるんですか」「どんな顔よ」「泣く寸前です」「泣かないけど……でも、ありがとう」「何がです?」「一緒に来てくれるって」「別に」 淳は前を向いた。「俺も気になるだけです」 その言葉に瑠理子はふと淳を見る。 瑠理子は、ある重要なことに気が付いた。 今の淳は何も知らない。 まだ父を憎んでもいない。 海原グループへ入ったばかりで、会社の内部事情すらほとんど知らない。 だからこの事件を起こせるはずがないのだ。 前世で瑠理子は、この不正疑惑も、父を追い詰めた証拠も、すべて淳が仕組んだものだと思っていた。
嬉しさが込み上げ、瑠理子は思わず頬を緩めた。「……それって」「何ですか」「嫉妬?」 期待を隠しきれないまま尋ねると、淳は一瞬だけ言葉に詰まった。 しかし、すぐにいつもの表情へ戻る。「違いますよ」「でも今、他の男と仲良くするなって」「御堂さんに失礼だと思っただけです」「……え?」 淳は淡々と続けた。「お嬢様は御堂さんと正式に婚約するんでしょう。だったら、他の男に勘違いさせるようなことはしない方がいいです」「……」「それだけです」 すとん、と持ち上がった気持ちが、一気に落とされた。「そう……」 瑠理子は淳の袖から手を離した。 馬鹿みたい。 何を期待していたのだろう。 直之と婚約すると決めたのは自分なのに。「じゃあ、佐藤さんと食事に行くこと自体は別に構わないのね」「……」「私がちゃんとお断りするつもりだったのに」 なにも言ってくれないのね。 でも、追及してせっかくの雰囲気を壊したくない。「それより、お昼食べるんじゃなかったの? 早く行きましょう。私、お腹空いた」 瑠理子は淳より先に階段を下り始めた。後ろから小さなため息が聞こえる。 結局、昼食は二人で食べた。 淳は相変わらず何事もなかったような顔をしていたけれど、瑠理子は少しだけ機嫌が悪かった。 それでも、向かいで食事をする淳を見るだけで嬉しくなってしまうのだから、本当に救いようがない。 その日の午後、事件が起きた。 経営企画部へ戻ってしばらくすると、突然、部内がざわつき始めた。最初は誰かの電話が鳴っただけだった。次に別の社員が立ち上がる。さらに、その隣の席でも。 「えっ?」「これ、本当?」「いつ出た記事?」 あちこちから声が上がる。瑠理子も資料から顔を上げた。明らかに雰囲気がおかしい。 「どうしたんですか?」 近くにいた女性社員へ尋ねる。「海原さん……」 女性は困った顔をした。「何?」「その……」 女性が言い淀むのを見て、嫌な予感がした。「見せて!」 社員が持っていたスマートフォンを受け取った。 ニュースサイトが開かれている。画面に表示されていた見出しを見て、瑠理子の呼吸が止まった。 『海原グループで巨額の不正資金流出か 社長関与の疑い』「嘘……」 記事を開くと、海原グループの関連会社を経由し、数億円規模の資金が不正に
直之という婚約者がいるのだ。 淳を選ぶ未来は、もう二度と訪れることはない―― そう思った途端、胸の奥がずきりと痛んだ。「……わかったわ」 瑠理子は小さく答えた。淳がこちらを見る。「なにがです?」「近づかないでって言ったでしょう」「……はい」「だから、わかったって言ったの」 なるべく平静な声を出したつもりだった。 でも、自分でも分かるくらい、落胆した声になった。淳も何かを感じ取ったのか、すぐには返事をしなかった。 雨だけが傘を叩いている。「……別に」「え?」「そんな顔してまで、離れなくてもいいです」「どんな顔よ」「今にも泣きそうな顔」「してないわ」「してます」「してません」「……していますよ」 淳が苦笑した。その表情が、少しだけ優しい。「俺も、言い方が悪かったです」「じゃあ撤回する?」「それは……」「しないのね」 瑠理子は少し拗ねるように視線を逸らした。 淳は困ったように眉を寄せる。「だって、お嬢様は御堂さんと婚約するんでしょう」「そうよ」「だったら俺とこんなふうに歩いてたら、御堂さんは嫌に思うじゃないですか」「……そうかもしれないわ。でも」 瑠理子は足を止めた。淳も立ち止まる。「今くらいはいいでしょう」「え?」「ただ一緒に帰ってるだけだもの。それまで駄目って言われたら、私」 言いかけて口を閉ざした。「何です?」「なんで
仕事を終えて会社を出ると、外は雨だった。「あ……」 瑠理子は軒下で立ち止まった。「傘、持ってない」「天気予報見てないんですか?」 隣から淳の声がする。「朝は晴れてたもの」「午後から雨って言ってましたよ」「知らなかった」「でしょうね」 淳が折り畳み傘を取り出した。「入ってください」「え?」「駅まで行くんでしょう?」「一緒に?」「嫌ならいいですけど」「嫌じゃない!」 思わず大きな声を出してしまった。淳が少し驚く。「……そんなに俺と一緒が嬉しいのですか?」「雨に濡れたくないだけよ」「はいはい」「その言い方やめて」 傘が開く。二人で入るには少し小さい。 歩き始めると、自然と肩が触れた。 近い。 とても。 嬉しい。 瑠理子は緊張して、まっすぐ前だけを見る。 けれど淳の方へ傘が傾いていないことに気づいた。「淳」「はい?」「あなた濡れてる」「これくらい平気です」「駄目よ」 傘の柄を持つ淳の手に、自分の手を重ねる。「もう少しそっち」「……お嬢様」「何?」「また近いです」 言われて気づく。ほとんど身体が密着していた。「……仕方ないでしょう。傘が小さいんだから」「そうですけど」 淳の声も少しぎこちない。二人とも黙った。 雨の音だけが響く。 不思議だった。
「淳……私のこと、好きなの?」 ぽろりと口から零れた。 ハッと気が付くと、淳は遠くにいた。 離れた場所まで歩いているから、今のつぶやきは聞こえていない。「……っ」 瑠理子は慌てて口元を押さえた。 淳が瑠理子をすきになってくれうそんな都合のいいことがあるはずがない。 前世では、自分ばかりが淳を追いかけていた。 彼の方から求めてもらった記憶なんて、ほとんどない。 それなのに今は、少し優しくされただけで期待してしまう。「駄目。仕事しなくちゃ」 熱くなった頬を両手で押さえ、瑠理子は無理やり資料へ視線を戻した。 だが、まったく頭に入らない。 売上高を見ても淳。 営業利益を見ても淳。 投資計画を読んでいても、さっき手を包まれた感触を思い出してしまう。「……全然だめだわ」 ため息をついた。 こんな調子では淳より先に真相を掴むどころか、経営の「け」の字も覚えられない。 それでも午後いっぱい資料と格闘し、気づけば窓の外はすっかり暗くなっていた。「あれ……?」 顔を上げると、周りの社員はずいぶん減っている。時計を見ると、もう七時を過ぎていた。「もうこんな時間?」 集中しすぎていたらしい。 慌てて資料を片づけようとしたところで、机の上に小さな紙袋が置かれた。「え?」「食べてください」 顔を上げると淳だった。「なにこれ?」「サンドイッチ」「見ればわかるわよ」「だったら聞かないでください」「そうじゃなくて、どうして?」 淳は呆れたように瑠理子を見る。「昼から何も食べてないでしょう」「…&hel
その日は、経営企画部で会社全体の事業について説明を受けた。午後になり、膨大な資料と格闘していた瑠理子は、早くも頭を抱えていた。 「……わからない」 売上高。 営業利益。 関連会社。 投資計画。 難しい話と数字が多すぎる。 花のことやお作法のことならわかるが、経営のことについてはあまり勉強をしてこなかったので、瑠理子にはさっぱりだった。「お嬢様」「なに?」 顔を上げると、向かいの席に淳が立っていた。「そこ、数字違いますよ」「え?」「前年度と今年度、逆に見てる」 見直すと、淳の指摘された通りだった。「どうしてわかるの?」「俺、一応経済学部ですから」 さらりと言われる。「大学生のくせに」「お嬢様も大学生でしょう」「……確かにそうだけど」「見せてください」 淳が隣の椅子を引いた。 瑠理子の横に座る。肩が触れそうな距離に、瑠理子の心臓が跳ねた。「ここ」 淳が資料を指差す。「売上だけ見ても駄目なんです。利益率も見ないと」「利益率?」「この会社の場合は――」 淳が説明を始めた。とてもわかりやすい。彼は思っていたよりずっと頭がいい。 前世でもそうだった。 淳は短期間で仕事を覚え、あっという間に海原グループの中枢へ入っていったから。 それが怖くて、海原グループから遠ざけたというのに。ここには入社しないでほしかった。「お嬢様?」「……」「聞いてます?」「聞いてる」「本当に?」「聞いてるわよ」「じゃあ今俺が言ったこと、言ってみてください」「えっ」 別のことを考えていたから、すぐには答えられない。 淳が呆れた顔をする。「全然聞いてないじゃないですか」「だって……」「だって?」 あなたの横顔を見ていたから――なんて言えるはずがない。 「理解できなかったの。あなたの説明が悪いからだわ。もう一回説明して」「ちゃんと聞いてくださいよ」「はいはい」「はい、は一回ですよ」「……意外とうるさいのね」「誰のせいですか」 そう言いながらも。 淳はもう一度、最初から丁寧に説明してくれた。 前世ではこんな時間は持てなかった。結婚する前の自分は、会社に興味などなかったから。 淳が何を学び、何を考え、どんな仕事をしていたのか、何も知らなかった。 今、人生をやり直せたおかげで、 彼の隣